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「オーストラリア万歳」――そう言うと、やさしい表情の中にちらりと機動的な光が差す。この人ほど、オーストラリアで求め、そしてそれを享受できたことに対して感謝の気持ちを強く持つ人がいるだろうか。求めたのは第2の人生。そのステップは“手に職”だった。
「あれは6年前、まだ日本にいるときでした。40歳になって、これから社会に出たら何ができるんだろうって考えたんです。何にもできない、って現実にガツンと来ましたね。実際、職探しに女性の再就職を支援しているハローワーク内の施設に行ってみたら、ずっと主婦だった私には一握りの限られた職種の募集しかない。どうしよう、って半ば追い詰められたような感じでした」
「手に職があれば」。痛感した純子さんに、ずっと以前になくしてしまっていた夢がよみがえってきた。 |
小学校の卒業アルバムによくある「将来の夢」。純子さんが「通訳」と記したその背景には、輸出入の検査機関で働いていた父の背中を見ていたから、というのがある。ただその夢は漠然としたもので、大学の英米語学科に進むも、多くの学生がそうであるように、アルバイトや交遊に明け暮れる生活を送っていた。
「憧れはあったんですよ。ただね、具体的なビジョンがないの。たとえば留学して実践の機会を得るとか。あ、でもそれは無理だな。だって、外泊が苦手だったんです(笑)。思えば体があまり強いほうではなかったので、家庭で充分かまってもらってたんでしょうね。居心地がよかったというか」
就職して1年ですぐに結婚、退社。ご主人は純子さんが主婦として家にとどまるよう、強く希望していたという。箱入り娘が嫁入りし、そのまま家庭を守ること18年。凪の人生に飽き足らなく思うことはあれど、女としてはこんな生き方なのだという気持ちで過ごしてきた。しかし、三番目の子供が小学校に上がってひと息ついたところで、純子さんに転機が訪れる。 |
「ある知り合いの女性の庭師さんを講師に、主婦仲間を集めてガーデニングの講習会を始めたの。趣味の延長という軽い気持ちで、家事に影響の出ない範囲で、と思っていました」。家族の世話からひとつ外側の世界へ。凪の人生に波風が立ち始めた。
「家族はあまり賛成してくれませんでした。それまではそれで当たり前と思ってましたから、そういうことでよかった。でも、そのときは何か違うんじゃないかと思ってしまったの」
決定的なきっかけは、あるオーストラリア人との出会いだった。ブラジル出身で、ポルトガル語と英語を自由に話すほか、国際共通語を理想とした人工言語エスペラント語の講師でもあり、国際交流のために各学校や施設で講演をしてまわる、純子さんにとってはまさに“異次元の人”。講演のステージ・マネジャーとして彼と半年ほど行動を共にする機会を持った純子さんは、急に自分の世界が開けたように感じた。
「開眼した、ってこんなことを言うんでしょうかねえ。もっと広い世界のことが知りたい、何か吸収したい、ってね。そして、自分の足で立つことができれば、そういうのもアリなんだなぁ、って」
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従属的な主婦としての気持ちは断ち切り、自活する意思を持つ――純子さんは新たな生き方に向き合うことを決心したが、ハローワークで冒頭に既述したような壁にぶつかった。悩んでいた純子さんにアドバイスを与えたのは、純子さんの世界観を変えたオーストラリア人講師。それは、日本という枠から飛び出すことだった。
「オーストラリアへ行こう」。日本国内であればもうスタートは遅すぎると周りから言われるであろう年齢。しかし、自分を試したいという気持ちに迷いはなかった。家族との別離を覚悟の上の決断ではあったが、2002年、渡豪。目指すはTAFE(テイフ)という州政府運営の専門学校の通訳コースだ。半年間で集中的に学び、資格取得を目指すという実践的な授業が魅力のそのコースに純子さんの入学が決まったのは、滞在3年目の2005年のことだった。
「オーストラリアに来たばかりのときは通訳コースに挑戦なんてレベルではまったくなかったです。少しずつという思いで新聞の記事を読んでわからない単語を拾っていくことから始めて。ラジオやテレビで耳から情報を入れることも欠かしませんでした。何度も同じ単語を拾っている自分に気づいて頭に入ってないなと落ち込んだり、辞書引きの作業ばかりあまりにも多くて涙したり。1年くらいでようやくわかってきたかな、って実感がありました。実際、TAFEのコースが始まると、日本で通訳をしていた人や英語圏内で何年も生活していた人がクラスメイトだったので、レベルがずいぶん高くてついていくのがすごくたいへんだったの。短期集中というだけあって宿題も山のようにあったし。実は一度、追試も経験しました(笑)」
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通訳中の純子さん。メモをするノートは必携 |
40歳を超えた純子さんの通訳への挑戦を無理だと切り捨てる人はもちろん皆無だった。オーストラリアでは出産や子育てを終え、ステップアップのために再び学業にもどる女性も少なくないからだ。学ぶ環境にどっぷりつかり、純子さんはのびのびと充実した半年間を過ごした。単語の覚え書きやテキストが一面に貼られた部屋の壁を一生忘れられないと純子さんは言う。そして、国家資格を取得。今では請ける仕事も少しずつ増えてきた。
「去年、ある県知事さんが日本からシドニーにいらして、州政府の担当や現地の商社の方を招いた誘致イベントを開催したんですね。そのレセプションで通訳をさせてもらったんです。大きなステージでものすごく緊張しましたけど、日豪関係という大きさを感じられたのも事実。双方の意思疎通の媒体になってるんだって思ったら、グッと来てしまいました」 |
| もちろん、通訳の仕事はこうした大掛かりなものから日常の個人的なものまで多岐に渡る。どれをとっても気を抜けない、と純子さんは話す。
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| 「通訳というのは単なる言葉の変換ではないんだと学びました。つまりは情報を伝えるわけですから、私自身がその情報の背景にあるものを理解していないと成立しない。いつも事前準備やリサーチに追われてます。“毎回その道の専門家たれ”という気持ちで臨んでいるつもりです」 |
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| 仕事前に自宅前で。サングラスをしているあたり、オーストラリアらしい?! |
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引き出しは多ければ多いほど、いい。通訳家としての知識の層を厚くするために、現在は会計学の講座に通い、金融と経済の勉強をしている。枠の中で穏やかに生きてきた日本での生き様と比べると、なんと貪欲なことか。
「これだけできれば満足、という頂点の見えない仕事です。だから、研磨を続けていい通訳になりたい。できれば1年以内に翻訳の国家資格も取りたいと思っています。スタートが遅いので、これからも走り続ける人生なんじゃないかな(笑)」
遅咲きの通訳者は、まだまだ止まらない。 |
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| 【1】On Demand通訳(先方の必要なときにかかって来る電話通訳)の場合 |
「連邦政府福祉機関の電話通訳(たいてい30分前後)は日に何度かケータイ電話に突然入るので、常にケータイを首からぶら下げメモを準備しています」(純子さん談)
道を歩いている間も買い物中も常に“スタンバイ状態”。5時には携帯電話をほっとして外す。 |
| 【2】On Site通訳(出かける場所やシチュエーションがあらかじめ決められている)の場合 |
| 11:00 |
授業を中抜けして指定の場所へ。1時間ほど前には到着するように
スタンバイ中は下準備のほか、本を読んだり学校の課題などをする時間に充てる
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| 15:00 |
授業終了 帰宅
学校の宿題など、勉強時間
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| 19:00 |
夕食など
夜は比較的ゆっくりくつろいで過ごす
自習時間に充てることもしばしば
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| 「いつも勉強時間が足りないので、休みの日は落ち着いて専門用語の単語集を作ったり日英の新聞を読んだりしています。休日リラックスするよりも、こっちの方が楽しい!ので」(純子さん談) |
| 午後 |
友人を招いたり、ホームパーティに出かけたりすることも |
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| 年々、記憶力が落ちているのは紛れもない事実なんですよ。それをサポートしてくれる心強い見方が納豆! 日本国内と比べると割高ですが、アジア食材店で簡単に手に入るので、日々欠かしません。それから、新鮮なフルーツと野菜。オーストラリアのみずみずしくて甘みある野菜をもりもり食べて、健康をキープしています。 |
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| 日本社会では女性が必ず言われる「もう年だから」というフレーズに呑み込まれてほしくないな。確かに記憶力は若い頃より落ちましたけど、人の2倍3倍繰り返せばという思いで継続しています。海外に出られなくても、日本国内の書店はすごく充実しているし、インターネットで外国語のニュースを聞いたり読んだりもできる。海外から来た人との交流も刺激になると思います。やる気があればなんだってできます。今後、子育ての一段落した女性は日本の大切な労働力になると思います。社会が我々を必要とする日は近い! 英語に限らず、あらゆる資格や技術にどんどん挑戦して欲しいです。私たちが変われば社会の考え方も変わるんじゃないでしょうか。 |
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