ダミアン・マニヴェル監督『イサドラの子どもたち』に堀江敏、石橋静河、三宅唱ら著名人12人からのコメント到着!

イサドラの子どもたち『若き詩人』『泳ぎすぎた夜』のフランスの俊英ダミアン・マニヴェル監督の最新作で、第72回ロカルノ国際映画祭最優秀監督賞を受賞した『イサドラの子どもたち』が9月26日(土)よりシアター・イメージフォーラムにて公開となる。

この度、本作を鑑賞した著名人たちより、この美しい傑作を賞賛するコメントが寄せられた。

堀江敏幸(作家)、石橋静河(俳優、ダンサー)、三宅唱(映画監督)、イ・ラン(アーティスト、シンガー・ソングライター)、松田青子(作家)、寺尾紗穂(シンガー・ソングライター、エッセイスト)、五十嵐耕平(映画監督)、草野なつか(映画作家)、五所純子(文筆家)、ヴィヴィアン佐藤(ドラァグクイーン、美術家)、小柳帝(ライター/編集者)、坂本安美(アンスティチュ・フランセ日本 映画プログラム主任/映画批評)の12名が、ダンス映画の枠を超えた映像詩に感銘を受け、それぞれの言葉でその素晴らしさを綴っている。

 

コメント一覧(順不同・敬称略)

◆堀江敏幸(作家)
最後に顕現するのは、無重力の碧い闇に放たれるような、重さを無化する手指の舞いだ。もうイサドラの言葉はいらない。言いたいこと、言うべきことはすべて、彼女たちが見つめる指の先にある。

◆石橋静河(俳優、ダンサー)
イサドラは、彼女にしか分かりえない深い悲しみを作品に昇華させた。
そしてそれは時代を超えて、個人の感情という枠を超えて、芸術の真髄とはなにかを私たちに教えてくれる。
そのことを、柔らかく静かな感触で知ることができた映画であった。

◆三宅唱(映画監督)
彼女たちの手、足、全身をダミアン・マニヴェルとともにみつめているうち、「あ!」という瞬間が訪れる。今まで目にみえなかったものが突然みえる感じ。「ダンスはわからない」という人こそきっとその驚きと喜びは大きいだろう。ダンスの面白さはなかなか言葉にならないが、だからこそ、「言葉にならない」ことを胸の内に抱えている人にとって大切な映画になるかもしれない。

◆イ・ラン(アーティスト、シンガー・ソングライター)
ひとりの個人的な感情が誰かの時間に行きつく、そのつながりの瞬間を見ることができて嬉しかった。
合言葉のように書かれたダンスの楽譜や日記なども、その元となる感情と結びつこうとする美しい試みのように見える。
他人の話を、感情を、身振りを理解し、それを再現する人間の欲望は(それがどこから来るかは分からないが)とても美しい。そして、この世にただひとりだけということはなく、すべてがつながっていることを、この映画を通じてあらためて確認することができました。

◆松田青子(作家)
四人の女性がイサドラ・ダンカンの「母」に近づいていく過程の美しさ、そして彼女たち自身の物語が溶け込んだ「母」の美しさに息をのんだ。
これからずっと、自分の心の片隅にこの作品がいてくれることをうれしく思う。

◆寺尾紗穂(シンガー・ソングライター、エッセイスト)
子を失ったイサドラのダンスがダンサーによって再演される。
それを見守る人々の顔が長く映されていく。驚いた。
誰かの心に耳澄ます人の顔はみな木々のように美しかった。
ダンサーも観客も、この映画に出会った私たちも、
人間は他者と、他者の経験に対し、本当はきちんと向き合うことができる。
その希望を、フィルムはただ静謐をもって語っている。

◆五十嵐耕平(映画監督)
彼女たちの体に魂のようなものが宿る。エルザが長い長い帰路(彼女の人生のように、当たり前で、とてつもない苦難に満ちた道のり)を経て、自宅のカーテンを撫でたその手を中空に差し出すとき、その魂はもうすでに私たちにも伝承されていることに私たちの肌や指先は気がついている。「ダンスは誰のものでもない」

◆草野なつか(映画作家)
秋から冬へと近づく。葉が落ち始め、下へ下へと向かう。
ある女性は視線を落として子どもたちを見つめ、ある女性は坂を下る。
重心を下げ、彼女たちは身振りを取得しようとする。
(空白を)正しく抱きしめる身振り。
その過程の時間が、私たちにこの上ない至福をもたらす。

◆五所純子(文筆家)
芸術は母子関係のつらなり。計画的であろうと、偶発的であろうと。孕み孕まれ、産み産まれ、教え教わる。血縁や生殖能力のことではない。だから逆説的に登場人物は女性でなければならなかった。三景四人の母や子が。断絶しながら継承する。いや、継ぎながら断つことに生き延びがある気がして、いまは。

◆ヴィヴィアン佐藤(ドラァグクイーン、美術家)
デジタル化不可能な最後の砦がダンスであり舞踏ではないか。
そして、個人の生を超える人間の在り方があるはずだ。
イサドラはそんなことを示唆してくれる。

◆小柳帝(ライター/編集者)
これまで基本フィックス(固定撮影)だったマニヴェル映画において、カメラが楚々とした動きを見せることに感動を覚えるのと同時に、これが紛れもなく「ダンスについての映画」であることを私たちは知る。伝承されてきたイサドラ・ダンカンの『母』のコレオグラフィ(振付)を身振り(geste)によって、またイサドラのテキストを声(parole)や文字(écriture)によって反復することを通し、四人の女性たちは、「誰のものでもないダンス」において、「自分自身の動きとやり方」を見出して行くのだ。

◆坂本安美(アンスティチュ・フランセ日本 映画プログラム主任/映画批評)
月光をほのかに照らすカーテンの端に這わせた手を頬へとゆっくりと移動させるハッとさせるほど官能的な仕草から始まるラストのダンス、本作に流れてきた、あるいはイサドラの生きた100年以上前、そして彼女が語る太古の時間、感情のすべてがその美しい動きの中に受け止められ、ただただ息をつめてその孤独な女性を見つめているしかない。
ダミアン・マニヴェルは、これまで以上に自由かつ優雅なる手つきで、秋から冬に移り行く季節を生き、そして踊る4人の女性たちと共ににひとつの作品=宇宙を創り出していく。

イサドラの子どもたち

イサドラの子どもたち

イサドラの子どもたち

イサドラの子どもたち

イサドラの子どもたち

イサドラの子どもたち

イサドラの子どもたち

イサドラの子どもたち

イサドラの子どもたち

イサドラの子どもたち

イントロダクション
モダンダンスの始祖として知られるイサドラ・ダンカン(1877~1927)。20世紀初頭、舞踊の世界に革命を起こした彼女は、1913年4月、二人の子供を事故で亡くし、その痛みに苦しみながら、亡き子どもたちに捧げるソロダンス「母」を創り上げた。

それから100年の時を経て、現代に生きる4人の女性がイサドラの「母」と邂逅する――。『若き詩人』『泳ぎすぎた夜』(五十嵐耕平との共同監督)が話題を呼んだフランスの俊英ダミアン・マニヴェルが、まったく新しい試みで「母」の翻案に挑み、イサドラと<子どもたち>の物語を紡ぎあげる。

物語を綴るのは、それぞれ異なる身体/年齢/境遇にある4人の女たち。イサドラの自伝と舞踊譜をもとに「母」の踊りと向き合う、振付師のアガト。対話を通じて新しい「母」を共作する若きダンサーのマノンと振付師のマリカ。そして「母」の公演を観劇したエルザは、自らと重ね合わせながら今夜の記憶を反芻する。悲しくも崇高な物語が、ミニマムな物語形式と情感溢れるカメラワークによって紡がれ、ロシアの作曲家アレクサンドル・スクリャービン(1872~1915)の楽曲が美しく彩る。その先鋭的な映画手法は、コンテンポラリーダンサーとしても活躍した監督だからこそなしえたもの。それはダンス映画の枠を超え、一篇の詩のように私たちを魅了する。第72回ロカルノ国際映画祭最優秀監督賞を受賞するなど世界的な評価も受ける秀作が待望の日本公開。

作品タイトル:『イサドラの子どもたち』
出演:アガト・ボニゼール、マノン・カルパンティエ、マリカ・リッジ、エルザ・ウォリアストン
監督:ダミアン・マニヴェル
脚本:ダミアン・マニヴェル、ジュリアン・デュードネ
撮影:ノエ・バック
編集:ドゥニア・シショフ/サウンド:ジェローム・プティ、シモン・アポストル
製作:マルタン・ベルティエ、ダミアン・マニヴェル
2019年/フランス・韓国/84分/ビスタ/5.1CH/カラー/DCP/原題:LES ENFANTS D’ISADORA
配給:コピアポア・フィルム

公式サイト:isadora-2020.com
公式Twitter:@isadora_2020

9月26日(土)より、シアター・イメージフォーラム他全国順次公開

 

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